エピソード2:その名を知った日

シェーグレン症候群という病名を知る わたしについて

それは軽い痛みから始まりました。

パソコンをいつも通り仕事で使っていると、両手の手の甲が動かすたびになんか痛い感じがするな、と思う日が続きました。

それとは別に、運動していない日に、膝が痛いな、と思うことがありました。運動すると痛みが消える感じがしていたので運動不足すぎて年齢とともに膝が痛くなるのかな?と思っていました。

そこに何かの関係があるなんて思わず、日常の些細な変化でそのうち治るだろうと思って過ごしていました。

やがて、肩の痛みも感じるようになりました。ちょうどその頃、私の彼氏も五十肩になっていて、私も同じくらいの年齢なので「自分も五十肩かな」と軽く考えていました。10月、朝起きた時に痛むことが増えましたが、温かいお風呂に入ると楽になるので、それでごまかしていました。

ところが11月も後半になると、痛みが日中にも広がり、いよいよ病院に行こうと決心しました。肩だけでなく、腕の一部も痛むことがあり、しかも毎日痛む場所が変わるという不思議な現象もありましたが、多分五十肩だとたかを括っていました。

12月上旬、「年を越す前に治したいな」と思い、近所の整形外科を受診しました。先生は念のため血液検査をしましょうと言ってくださり、1週間後、その結果から自分の中での急展開を迎えることになります。


血液検査の結果、「抗核抗体A」という項目が異常値だとわかりました。この時、初めて「膠原病」のようである、ということを教えてもらいました。

年末が近く、大学病院の受診は年明けになってしまうだろうということで、先生は近くにいるリウマチ専門の開業医を紹介してくだり、その足でその病院に行くことにしました。移動の道すがら、携帯で「膠原病」を検索しながら、一体私はどんな病気なんだろうと思いましたが、あまり深くとらえていませんでした。

到着後、その病院で再度、血液検査を受けました。
その日は「エリテマトーデス」という病気の可能性があると初めて聞かされました。

その直後に、私は出張のため新幹線に乗りました。その車中で「エリテマトーデス」を調べて、胸が締め付けられるような悲しさに襲われました。まだ病気だと確定していないのに、なぜか涙が出てきてしまいました。すぐに死ぬような病気ではありませんが、自分の終わりに無理やり向き合わされたようなきがしたからかもしれません。「まだエリテマトーデスと決まってないのに、どうして泣いているんだろう」と、不思議に思いながらもなかなか落ち着くことができず、涙がこぼれて止まらなかったことを覚えています。


翌週、血液検査の結果が出ました。診断された病名は「シェーグレン症候群」と「レイノー症候群」でした。
抗核抗体Aなるものの上限値が9.9のところ、792でシェーグレン症候群
RNP抗体なるものの上限値がこちらも9.9のところ、1824でレイノー症候群
という結果でした。
どれも明らかに異常値なので、思わず「先生、私、イケてますね。」とコメントしてしまったところ、
主治医も「はい、イケてます。」と淡々と応えてくれました。

さらに主治医は、この病気は難病で対処療法しかなく一生付き合うことになること、高いツボを買うと治るといったようなことに騙されないように、と注意喚起を促してくれました。

アドバイスはさておき、シェーグレン症候群もレイノー症候群も今までの人生で聞いたことのない病名でしたが、携帯で調べるといずれも生活の質を著しく落とすものの「命に関わる病気ではない」ということがわかりました。そして、この頃からネットで治療方法を探し続け始めました。

今思えば、少しずつ体の異変は手の甲が痛かったり膝が痛かった頃から始まっていたのだと思います。さらなる変化は、年末の忘年会帰り、足先が冷えて痛むことがありました。あの痛みは、きっとレイノー症候群だったのでしょう。肩の痛みに比べるとすぐよくなるので、寒いだけだろうと思っていました。

ただ、シェーグレン症候群について調べていくと、レイノー症候群についても併発する病気として紹介されており、まもなくその症状が手に出るようになったので、レイノー症候群についても自覚するようになりました。

そして、年末の深夜、体調が悪いのに同居人に付き合って初詣に出かけた時も、防寒していたにも関わらず、足先が痺れて歩けなくなってしまいました。ギリギリの体力で出かけた先での初詣のおみくじは「大凶」。病の項目は、正確には覚えていませんが「治らず。」といった内容でした。


この後、私の症状はもう少し悪化していくのですが、それはまた次回。
私の病気の経過については、毎週木曜日に息抜き的にアップしていきますのでお楽しみに。